「新潟県中越地震で看護師ができたこと」

小林晴美(新潟県長岡市草間医院)

 

【地震発生初期,被災地ではどのような状況が起こり,どのような看護が行われたか】  10月23日(2004年)は奇しくもその日は私の誕生日でした。予期せぬ,とんでもなく恐ろしい大きなプレゼントを戴き,生涯忘れられない日となりました。  夫と二人,日勤を終えて帰宅し,夕食の支度に取りかかった時でした。何事が起ったのかと一瞬,訳がわからなくなるような大きな衝撃が走りました。台所の鍋・釜・食器などありとあらゆるものが戸棚から飛び出し,凄まじい音のなか,とにかく火を止めて,真っ暗な中を這うように廊下へ出ました。夫も私を心配し,柱につかまりながら廊下へ。恐怖で震えながら吠え続ける我が家の子供たち(愛犬3匹)を抱き抱え玄関の戸を開けて待機していました。揺れが落ち着いたときを見計らって車に愛犬3匹を乗せ,二人でとにかく勤務先の病院へ向かいました。愛犬達さえ無事で一緒なら,後は迷うことなく二人とも病院へ向かえました。  小さなお子さんやお年寄りや病人を抱えている人は,いくら病院職員といえども,すぐにかけつけることはできにくいと思いました。その点,私たちは身軽でした。 ライフラインも通信手段も途絶え,あろうことか道路もあちこちで寸断されていました。非常連絡綱など,生きているはずがありません。とにかく,駆け付けられる人が駆けつけ,人手が少なろうが,居る人で何とかしなければならない状況でした。  当時,準夜勤の看護師たちは,自分も恐怖と不安でいっぱいなうえに,患者さん達を助けなければならないという「使命感」と,一人二人の勤務者でどうしよう,という困惑とで頭が真っ白になっていたのではないかと推察しました。さらに,自宅はどうなっているのだろう? 家族は? 安否確認さえできない状況で看護師として介護員とともに,十二分にこの日の勤務を果たしてくれていました。どれほど,大変だったことか,本当によくやってくれたと思います。  病院に駆け付けた私は,病棟の2階,3階から「寝たきり」の患者様,恐怖で動けなくなった人,パニック状態となっている人などを車椅子・担架・布団レスキューなど,使えるものは何でも活用し,二,三人で抱えあげ,階段を何十回となく往復しました。余震が続いているなかだったが揺れを感じる暇もなかったです。皆,一心不乱に動き回りました。それも笑顔で,患者様に声掛けをしながら動きました。「患者様の不安を和らげなければ」という思いから自然に笑顔となった行動だったと今,思います。  地震発生直後の活動は,通常,行われている防災訓練とは全く異なり,院内放送も非常用放送も使えず,災害対策本部設置もままならない状況下で,指示・命令を仰いでいる余裕すらなく,それぞれの部署に居合わせた職員が状況判断と決断を下し,患者の避難誘導に当たらなければならなかった。究極の非常事態とはこうゆうものだ,と後になりつくづく思えました。なにより,どんな場合でも,いちばん,患者様の側に居合わせるのは看護師であり,責任の重大さを改めて痛感させられました。  今,思うともし,当院が7階,8階建だったら患者様を全員避難させられただろうか,エレベーターが使えなくなった場合の避難誘導についてしみじみ,考えさせられる機会にもなりました。今後に活かして行きたいと,ようやく思えるようになりました。

(尚,このレポートにある経験は十日町市中条病院勤務のおりのものです)

 

 





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