災害看護メッセージ―備え―
ジャワ島中部地震救援活動の経験から

長浜赤十字病院救命救急センター 看護係長 金澤豊

2006年5月27日5時54分(日本時間7時54分)インドネシア・ジョグジャカルタ南部の海域を震源とするマグニチュード6.3の地震が発生しました。発災当初の日本の対応ですが、当初の報道では死傷者数は少なく端数まで出ていたこと(大きな災害では、例えば「死傷者○千人以上」等の表現が多い)からインドネシア政府が被災状況をしっかり把握していると考え、これ以上、被災者数が急激に増えるとは予想されていませんでした。しかし、その後の死傷者の増加から、日本の国際緊急援助隊医療チームの派遣決定が素早くなされ、翌日の午前中には先遣隊が成田を出発しました。  医療チーム登録者は日頃、JICA中級研修・勉強会と自己研鑽に余念がなく、この度も、岐阜で研修中に派遣要請を受け、勤務先の福岡経由で東京に参集した医師や、東京の研修から引き続いて派遣に至った隊員もいました。私は三重県(所属は滋賀県)にいましたが、鞄にパスポートが入っていたため、息子に名古屋駅まで荷物を届けてもらい急遽、東京へと向かいました。特に海外への災害派遣で、急性期医療チームの場合は時間が床部となります。それぞれが時間をやりくりして参集し国際緊急援助隊医療チームとして23名が派遣されることになりました。  派遣先のジャワ島ジョグジャカルタ市内に程近いムラピ山は噴火の活動期にあり、日本からの援助で砂防ダムや非難設備が整っていた地域でした。今回の地震発生直前に噴火予測がなされており、災害対策準備が行われていたところでした。  日本の国際緊急援助隊医療チームが救援要請を受け、診療所を立ち上げたムハマディアイスラム病院は、医療の供給と需要の不均衡が顕著に認められ、100床の病院に300名以上の負傷者が入院し、廊下や病院前のテントに患者や付き添いの家族があふれました。このため、より多くの患者に医療サービスを提供できるようにするために、病院前の路上で診療を継続しながらテントによる診療所を立ち上げ、運営しました。このような「整理」により医療側の負担も軽減することができました。  診療所テントを受診する負傷者はムハマディアイスラム病院に入院している患者も含まれておりました。なかには、「脊髄損傷によって臥床安静が必要な患者」などで、今後、手術が必要となる患者なども含まれていました。脊髄損傷の患者に対して看護隊員は、ACLSやJPTECの研修を受けていたため、初めて知り合ったメンバーであっても息のあった看護チームとして活動ができました。その他に、骨折患者には副木が当てられている、なかにはバナナの葉を腕の大きさに合わせて副木代わりにして固定し、腰紐を三角巾代わりにしている、などといった被災地ならではの工夫が見られました。大きな傷は当初、縫合されたため直ぐに感染が発生しました。そのために抜糸、洗浄、デブリードマンをしなくてはならないケースが少なくありませんでした。  インドネシアの日常の医療事情として、インフォームドコンセントは行われておらず、医師の指示に患者が従うといったことが一般的でした。そのためか、災害時の緊急対応という現状もあり、医療者の説明不足と患者の知識不足に関連した様々な問題を抱えている患者が多く存在していました。  被災地域では、平常時から入院患者の日常生活援助は家族に委ねられており、地震発生後も同様の状況でした。入院患者には食事や水、石鹸や歯ブラシなどの入った「援助キット」が配られ、排泄や清潔援助は家族が実施していました。精神面では、自身によるショックが大きいのではないかと考えられましたが、地元の被災者は表情も堅くなく、痛みに対して我慢強いようでした。  以上のように、特に回外救援を行う場合は、被災国の医療状況や地域の生活事情をしっかりと把握し、備えておくことや、現地でも情報を得る必要があります。さらに、日本の医療水準・生活水準で考えてはいけないことや、みだりに、日本での考えを持ち込んだ場合は継続した支援となりにくいことを再確認することができました。  インドネシアを訪れた経験のない私にとって、この半年の時間経過とともに、いま、ようやく災害の全体像が見えてきたように思えます。  あの入院患者さんたちやテントの被災者の方々、通訳でお世話になった皆さん。いかがお過ごしでしょうか。心配です。機会があったら再び、訪問したいと思っております。

 





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